率直さから得られる面白さ

今日は15日(土)であるので今更13日(木)の日記を書くなどという事は非常に白々しくもあり、かつ夏休みの最後になって日記をまとめて書く小学生のようでもあって、30歳にもなろうとしているのに何故未だにかような幼児性を発揮しているのだろう誰に強いられているわけでもないのに、と思わないでもないのですが、最早「毎日日記を書いている」という「事実」だけを残すということは私にとって幾許かの脅迫観念すらも感じられるルールであるので致し方ないのです。なので老化した脳に鞭打ってなんとか13日の記憶を搾り出しているというワケ。2日も前のことなんか覚えてらんないよ。
13日に確実にやったこと。その1、大学生のときに買った漫画(=天使禁猟区)を読み返したこと。その2、東京新聞夕刊の「大波小波」という記者の手によるコラムに大いに笑ったこと。このコラムには笑った。なにが書かれていたかというとサッカーの中田が自身のHPに掲載した引退に関する文章に対する酷評なんだけど、ああまで思ったとおりのことを率直に書く人は久々に見た。私自身は中田のことは特別好きでも嫌いでもないんだけど、強いて言えば同世代ということだけで若干の好意をもつことはやぶさかではないというくらいだが、「貶す」というよりは寧ろ素直に自分の感想を書いたという感があるこの記者の文は大変面白かった。対して長くも無いので全文引用。

中田英寿選手の二十九歳での現役引退が大きな話題になっている。全盛期に惜しまれながら辞めるというのは、いかにも彼らしい美学だが、「人生は旅である」とか「自分探し」をするとか自身の公式ホームページに書いている引退声明文が、各界の脚光を浴び、小中学校の授業の教材にしたいという教師の要望まで殺到しているらしい。
選手としての彼は疑いなく立派だった。しかし、誰かがはっきり言うべきだ。あんな文章のどこがよいのか、理解に苦しむと。なるほど言葉はみんな美しいかもしれないが、三十歳になろうという人間にしては幼稚な、人目も憚らぬ自己陶酔ではないのか。チームと溶け合えなかったのも無理はない。
村上龍と親交があり、遠征の車中でも文庫本を一人読んでいる姿がよく見られたが、あの文章を読むかぎり、文学的センスはゼロである。文学とは含羞だということを村上龍は教えるべきだった。いや、逆にこれが今日の日本の「文学」レベルなのかもしれない。
サッカーファンだが中田嫌いである金井美恵子は、『目白雑録』2でも中田の悪口を書いている。彼女が『一冊の本』の連載で、あの手記をどう酷評するか、楽しみである。

よくもまあここまで素直に思ったとおりのことを書いたもんだと感心しましたよ。それから常日頃、自意識に対して並々ならぬ感心を抱いているというか、「自分の自意識に対する無自覚さ」が誰かを鬱陶しいと思うときの基準になりがちの私としては中田の「サッカーという旅」とか「自分探し」などという言葉は捨て置けない感じがしないでもないが、それでもさして気にならないのは私のような、サッカーや中田に対して受身の情報しか持たないものには世の中がこれらの言葉が積極的に耳に入ってくるような環境ではないからかもしれない。しかし「自分探し」というとついイラクで殺された香田さんしか浮ばないんですが、私だけですかね。