ヒマなので

急に思い出したのだが、以前職場のさして親しくない人となにか会話をしていた際に、出し抜けに(少なくとも私にはそう感じられた)「子どもの頃IQ高かったんですよ」と言われたことがある。キョトーンといった体で「はぁ…」としか言えず、なにか話が続くのかも、と一瞬待ったが特に続きはなかった。あれはなんだったのだろうか。
特に求められてもいないのに自らIQを取り沙汰するということは、やはりその人にとって過去にIQが高かったことは『うれしかったこと』だったのだろうか。さして親しくない私にうっかり無邪気にもそのことをもらしてしまうほどうれしかったのだろうか。おそらくその人は三十代後半なのだが、ではIQの検査結果がわかったその日から現在まで、そのことがその人にとっては『うれしかったこと』のナンバーワンを独走していたのであろうか。しかし残念ながらその情報をもたらされても「よかったねぇ、うれしいねぇ」などと共感することはできなかった。お母さんじゃないからな。お母さんどころか友達ですらないからな。
それで思い出すのは学生時代、大学の正門前に待ち構えていた男子学生たちに呼び止められ「僕たち東大医学部なんだけど、今度パーティやるから来ない?」と言われた件である。この人たちにとっては、ただの東大じゃなく『東大医学部』というところが誇りのポイントであったのだろう。言われたこっちとしては「だ・か・ら?」っちゅう感じだが。
そもそも初対面(ていうかただの行きずり)の人間に対し、自分の数ある属性のうちのたった一つだけを取り上げて、自分自身の人間性を代弁するのに、違和感はないのだろうか。別にそれは上記の『東大医学部』みたいに、その人にとってうれしいことと思われる属性じゃなくてもいいのだけれど、たった一つの属性で単純に自分を説明してみることに居心地の悪さを私は感じる。現実にはいろんな属性が絡み合って、それで一人の人間になっているわけだし、一つの属性だけをピックアップしてしまったときに、その言葉にまつわるイメージの範囲内で自分のパーソナリティを相手に定義づけられてしまうと、自分はその範囲だけに収まる人間じゃない!と反抗してみたくなる。たとえば、中学・高校のころにたまに、私が理系だと知ると「理系の人は冷たい」とか「理系の人はどうせ小説なんか読まないんでしょ?」とか言うやつがいたのだが、一つめの「冷たい」は、そうかも知らんがじゃあ私に冷たくされたことあんのか、その発言は実体験に基づいてんのか、そして実体験に基づいているなら「理系の人は」じゃなくて「あなたは冷たい」と言え、と言いたいし、二つめの「小説読まない」は嘘である。*1大学の志望が理系っていうだけで勝手なことをいう輩がいるというのに、自ら敢えて自分の属性のうちの一つだけをピックアップし、イメージで勝手なことをいうための材料を与えることはなかろう。
それとも敢えて属性を一こだけ取り沙汰する人は、その言葉にまつわる世間一般のイメージ(そもそも自分がその属性に対して抱いているイメージが、他者が抱いているイメージと一致しているかは不明なのだが)の通りに自分を捉えて欲しい、ということなのだろうか。ブログのタイトルで『○○大学生の日記』などや、自分の職種を冠して『○○の日記』などというのを見かけることがあり、つい私は自分の感覚で「自分のことを一般的な名詞に置き換えて、イヤじゃないのかね」などと思っていたが、彼らはひょっとしたらそのイメージ通りに見られたいので人々の思い込みは願ったりかなったりなのかもしれない。もっと言うと、そもそもイメージ通りもなにもなく、特に深い意味はないのかもしれない。ということでこれまで書いたことは本当に無駄なのであるけれど、相変わらず仕事がヒマなので仕方がないのである。ヒマはよくないね。小人閑居して不善をなしました。

*1:ちなみに「理系は冷たい」「本を読まない」だけだと、マイナスイメージだから私が不快に思っていると思われるかもしれないが、他に理系というと「頭がいい」というのもあって、それも迷惑な話である。理科系科目が好きだからって、頭がいいとは限らないじゃん。これの根底には数学コンプレックスがあると思われるが、中高生にとって国語ができるといっても即「頭がいい」にはならないのに、なぜ数学ができると「頭がいい」になるのかは別の機会に考えてみたい。