どちらかというとプアの問題をどうにかしてほしい

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1
上記のエントリが面白かった。面白かったのであるが、『勉強ができる』が蔑称となりうる背景にお金の話が出てこなかったのはちょっと意外。意外っていうか、こういう考え方してんのは私だけっちゅうことか。
『勉強が出来る』→『一流大学に入れる』→『一流企業に就職できる』→『所得が高くなる』⇒「だから勉強は出来るようになるべきだ!」という理屈で子どもに必死に勉強させている親を持つ子とか、或いは勉強を親から強いられていないとしても、「勉強は出来るようになるべき」と漠然と感じている子どもは多いのではなかろうか。
勉強が嫌いな子にとって「勉強は出来るようになるべき」という風潮は当然ながら苦痛なわけで、そうすると勉強が出来る子というのが楽をしているように見えたり、ズルいと思ってしまったり、妬ましくなったり、できるヤツに何でもいいからケチをつけたくなって、蔑称として『勉強ができる』を用いるようになるのではないかね。まぁ、勉強できる人を妬んだり憎んだりするのは筋違いなわけだが…。ちなみにスポーツができることで妬まれる事が勉強ができる場合のそれと比べて稀なのは、スポーツができるようになるべき、と強いられる事がないからだと私は思っている。
しかしだね、そんなにお金を稼ぐことが大事か? いや、無論大事なのだけれど、人が自立して生きていけるだけ稼げたら十分じゃないかね。そもそも勉強を上記のような理由で強いられている子ども自身は金持ちになりたいと思ってるのかね? 思ってないかも知れないじゃん。金持ちになりたい子どもに、一番簡単で確実な手段として「いい大学を出る」というのがあると教えるのは悪くないと思うけどさ、金持ちになるのは万民にとっての絶対的な幸福であるという前提で「勉強しなさい」はあんまりじゃあないか。さらに言うと、その前提で努力を強いたところでやはり結果に差が出るわけで、「やればできる」みたいな事を言って勉強が苦手な子に努力を強いるのもどうかと思うよ。身体能力に差があるのと同様に学力を高める能力に関しても個人差があることを認めた方がよくはないか。勉強が得意な子に比べて不得意な子は、ある学力レベルに達するのに払う努力が得意な子よりも多いのに、にも関わらず同じレベルに達することを求められたりしたら、不当に苦境に立たされてるって感じちゃうかもしれないじゃん。
それから、子どもに勉強を強いる大人の「勉強しなさい」って言葉はいやらしい。翻訳すると「お金をたくさん稼げるようになれ」というとても即物的な言葉なのにさ、その言葉を真に受けて実際勉強が好きになっちゃったりして大学に何年もいるような人は就職がなかったり、社会からあんまり必要とされてなかったりするじゃん、どういうワケ!? 勉強すればいいんじゃなかったのかよ。
思わず『文系で博士を出て就職がない人』の気持ちになってしまった。そんな人身近にいないから全くの想像だけど。結局世の中的には、ある一定年齢(二十歳前後)に一流大学に入学し、ある一定年齢(二十二歳前後)で卒業している人間がOKで、必要以上に大学にいすぎる人間はアウトなんでしょ。どうにかしてくれこの世の中。
まとめると、勉強ができることを求められる世の中なので、できない人はできる人を妬む、しかし勉強を手段として捉えなくてはダメで、本質的に勉強が好きになっちゃうと、あんまり社会で必要とされにくい、という話だ。まあ、あくまで私個人の意見だけど。
無論いろんなケースが考えられるので、親に出世コースに乗せられて、自分自身もそれがまんざらではない子、親に勉強を強いられず、自分自身も勉強に価値を感じないから出来るヤツを見ても妬ましくない子、などなどいろいろいるでしょうよ。でもさー、もう面倒くさいから共産主義にしちゃえよ! いや、共産主義までいかなくともいいんだけどさ、人が最低限暮らしていけるだけのお金を政府が給付するようにして、それよりも豊かな生活をしたいヤツはいい会社に就職するなり医者になるなり弁護士になるなりすりゃあいいじゃねえか。そしたらホラ、ワーキングプアの問題は解消するかもしれないじゃん。
話が逸れたな。ワーキングプアが解消するのはいいが、『勉強できる』が蔑称の話にはあんまり関係なかったか。まいっか! いーやいーや関係ないし。蔑むように「勉強できるよね(性格悪そう)」などと言われる社会(小中学校か?)とはもう無縁だもんねー。羨ましいか、もっと羨ましがれ勉強好きの子どもよ! 今の私に関係するのはワーキングプア(或いはただのプア)の話だ。勉強のことはどうでもいいのでプアの問題を解決してほしい。