やるべきことを片付ける

今年の2月にウズベキスタンに行った時に知り合った人に、メールを送らなくては、と思い続けて早10ヶ月。ていうかウズベキスタンに行ったの今年の2月? もっと前のような気がする。今年もいろいろ旅行したからなぁ。ウズベキスタンがらみでメールを送らないといけない相手は4人いて、うち2人は私がタシケントで道に迷って声をかけたら意外にも日本在住歴があり日本語堪能だった人で、彼女らは友達との約束があるにも関わらず、私の行く先まで案内してくれた上で、空港行きのバスが出る場所まで指し示してくれたのだ。この人たちへのレスは簡単で、なぜかって無論ローマ字でレスしたからである。だって向こうも「ベツニ日本語デイイヨ〜」って言ってたからな。だから帰国して早々にレスして、向こうからも返信があったりして、それで仕事完了。
もう1人はサマルカンドからブハラに移動中に知り合った大学生で、ウズベキスタンというのは鉄道駅から街中まで車じゃないととても移動できないようになっているのだが、気のいい彼は自分と仲間が乗るタクシーに私をタダで乗っけてくれて、しかも宿泊するホテルの前まで連れて行ってくれたのだ。英語の勉強中だという彼はひとえに勉強のために私にメールを寄越したりしたのだが、それでは私まで英語の勉強を強いられるということではないか! そもそも10歳以上も若い男子の相手なんて、日本語だとても面倒くさくてイヤだ。ということで世話にはなったし恩を感じてはいるが、彼とは刹那的な出会いのままで留めたいと思う。
残りの1人は、タシケントの空港で飛行機に乗るまでの数時間をおしゃべりして過ごした台湾の人で、イギリスに留学経験のある彼女の流暢な英語に対して私は当然しどろもどろだったにも関わらず、なぜか話があって、なにか気持ちが通じ合うようなところがあったのだ。こういうこと、たま〜にあって、マルタにいたときもたった1週間同じ家にステイしていただけのドイツ人の女の子とも、彼女の場合は私より向こうの方が圧倒的に英語ができなかった、つまり二人とも相当ひどいレベルであったにも関わらず、なぜか話が盛り上がってすごく楽しかった。人との相性って、言葉の壁を超えるものなのだね。
で、その台湾人の子とは、ああこれはもう、たった数時間の出会いだったけど、もはやちゃんと友達だな、と思うほどで、即メールを送ろうと思っていた私の前に立ちはだかったのは言葉の壁。書き言葉ではなかなかその壁を超えることは困難なのであった。当たり障りのない話しかしないのであればさほど大変ではなかったかもしれないけれど、たった数時間で「この人トモダチ」と思うほどである。いろんな話をしたのだよ。そして目の前に相手がいれば勢いとフィーリングと身振り手振りで言いたいことが何となく伝わるというものだけれど、文章にしようとすると、いろいろ伝えたいことはあるけれどそれがさっぱり表現できない。「元気ですか? 私は元気です。また会いたいネ☆」みたいなメールなら、わざわざ連絡を取り合う必要もなかろうというもの。チクショウ、なんでオレは英語ができないんだ!!と心中で叫び、そして忸怩たる思いでいっぱいになりつつ早10ヶ月である。しかも4月に一度、向こうの方から簡単なメールがきたにも関わらずレスできず。このままでは年は越せない、と意を決してメールを書いたのが昨日。いや、本当のことをいうと、いつも「今日は昼休みにメールの下書きをしよう」などと思いつつ読書に逃げていたのだけれど、昨日に限って本を忘れ(より正確に書くと、文庫の上下巻のうち上巻を持ってきたと思ったら下巻だった)、それで通勤電車の行き帰りと昼休みにすることがなく、持ってた電子辞書をおもむろに開いたのである。
結局都合2時間かかった。たったの2時間? 書いている最中はすごく大変だった筈なのだが、たった2時間の努力ができずに10ヶ月放置か。…とりあえずまあいいや、その問題は。で、送る段になってまた自意識がむくむくと起き上がってきて、今更こんなメール送っても「ナニコイツ、バカジャン?」とか思われるのでは?などと無用の心配をし始めたのだが、うちのやつに「せっかく書いたんだから送れば」と諭されて送信。そして「一緒にとった写真添付しました」とか書いといて添付し忘れた。もう、向こうから返信はないかもしれないけれど、少なくとも私は義務を果たした、人のメールを平気で無視する人間ではなくなった(大学生のメールは無視しっぱなしだけど)、と己のざわめく心を鎮めること15分。もうレスが来た。ヒィ〜〜ッ! う、嬉しいけど、また英語のメール書かなきゃいけない番!? たった今苦役から解放されたばかりだと言うのに!
返信には「とうとうあなたからメールがきた!」とあった。ドキドキしてまだゆっくり読めていないのだけれど、時間がかかってもちゃんとレスしてよかったと思った。そして、先月日本に来たんですって。だから「はやく連絡とりたかった」とあった。私は馬鹿だ。なぜもっと早く事を進めない。懸案事項は速やかに解決するのがよい、ということを学んだ冬の晩。自覚はあったが、それ以上に未熟者でした。どうせオレはダメな人間ですよ。でもって今日は風邪引いて仕事休んでいる*1ので、ある意味返信のチャンスである。多少熱がある方がおかしな英語書いてても気づかなくて、さっさと書き終えられるかもしれないし。でも「本来なら働いているのでレスできなくてもOK」と先延ばししているのである。何も学んでないじゃん。今日は『徹子の部屋』がジャニーズの子ども相手でとても面白かったです。
しかし私は本当に英語ができなくてとてもツライのであるけれど、なんでこんなにツライのでしょうか。それは私が見栄っ張りだからです。キャッ! 『英語くらいできないとハズカシイ』という意識はあれど努力はできず。うちのやつなんか私よりも英語できないけれど、別に特になんとも思っていなさそうである。どうでもいい、というわけではなく、ただニュートラルに自分の能力を把握しているという感じか。それと比較すると「英語ができなくてツライ」などという心の動きはとても無駄なものに思える。ツライ思いをバネに努力するなら無駄じゃないけどさ、私の場合努力しないわけだからさ、無駄じゃん。で、努力ができないからすぐ「また短期留学しようかな」とか思うわけだが、ただコミュニケーションがとれるようになればいい、というレベルを超えて、ちゃんと大人っぽく、仮にビジネスの場なんかで喋っても恥ずかしくないレベルを目指すとなると、単に英語圏に身を置くだけではだめでやはり勉強が必要になるわけで、それは何年も日本に住んでいても日本語がへたくそな外国人を見ても分かる事である。コツコツと努力を積み重ねる事なしには上達しないであろうが、そのコツコツ努力がもっと子どもの頃からできていれば、私の世界は、もっと違ったものになっていたでしょうね…。
ところで思い返すと、やはり旅先で人と仲良くなるのは一人旅のときだけだなぁ。今年はあとシンガポール、韓国、エジプトなんかにも行ったのだけれど、いずれも同行者がいたためアドレス交換するほど喋った相手はいないね。一人旅をすると折角の休暇なのに心身ともに日常より断然疲弊するのであるけれど、旅をしている感は強い。

*1:多少の熱と咳なら仕事ができそうなものであるが、無理して仕事に行くより休んだ方が一緒に働いている人々のためになるような気がしませんか。熱が出た、って言うとすぐインフルエンザを疑われる昨今だからな。じじつ昨日も帰りがけに「熱が出た」と言ったら(中略。昨日の日記参照)、最終的には懐疑的に「普通の熱?」と言われた。