なおみ

中学時代の友達のことを考えていたら、何故か突拍子もなく幼稚園時代のことを思い出した。この脈絡の無さに我ながら驚愕。兎も角思い出した内容はというと、幼稚園でもらった絵本のことである。友達と遊ぶよりも本を読むほうが好きな幼稚園児であった私は、幼稚園で月に一度、絵本を貰う日が毎月毎月楽しみで仕方が無かったのだ。今でもお気に入りのもののタイトルははっきりと覚えている。「ムッシュムニエルのサーカス」とか。しかし一度だけかなり毛色の違う絵本を貰ったのである。絵本とはいっても挿絵は一つもなく、全て写真、しかも少女の等身大の人形の写真だけなのである。語り手である「私」の唯一の友がその人形の「なおみ」であり、二人は喧嘩をしたりもするのだが、謝るのはいつも「私」の方なのだ。今このエピソードを書いて初めて気づいたけれど、いつも謝るのが「私」の方であって当然だろう。人形が自発的に謝れるわけはないしそもそも喧嘩をしている自覚だってないだろう。本の内容に戻るが、最後に「なおみ」は死ぬのである。もうこのくだりが怖くて怖くて仕方が無かったのだ、当時の私には。しかもこの内容に恐れを抱いていることを誰かに漏らしたら呪いがかかると強迫観念にかられていた。怖いから読みたくないのに気になって何度もページを開いてしまい、見るたびに後悔していたものである。
兼ねてから四谷シモンベルメールは好きだったのだが、私の中でその感情は「人形愛を通じて結局は渋澤さんを愛好しているに過ぎない」と説明がなされていた。しかしこの夏のシュヴァンクマイエル体験、ジュンク堂で見つけた「Doll Forum Japan」なる雑誌の中にあった球体関節人形というジャンルによって、人形愛は渋澤さんによらずに独立して私の中にあるということが判明したのだが、ひょっとしたらこの人形に対する畏怖、畏敬の原体験はあの「なおみ」にあるのかもしれない。そうだ、今日だって「なおみ」を思い出したのは、きっかけは中学時代の友達にあるのではない。ジュンク堂でDFJのNo.42を手に取りながら友達のことを考えていて思い出したのだから、きっと視界にうつったDFJの中の人形の写真がきっかけだったのだ。
今この本は入手可能なのかきになって、「なおみ 人形 幼稚園」でyahoo!にて検索。これじゃ見つからないよなぁと思ったが、一番最初にヒットしたのが復刊ドットコムの「なおみ」復刊希望ページだった。やっぱこれって多くの人の心に影を落としていたんだ!早速私も復刊投票してみよっと。