恥の再確認

フーコー「言葉と物」の第一章、ベラスケスとフェルメールを読み違えるという致命的ミスについては昨日既に書いたところであるが、ラス・メニーナスを念頭に置いて該当箇所を改めて読んでみると、読めば読むほどベラスケスである。それ以外の何者でもない。紛うことなくベラスケスであるのだ。昨日の私はどれだけ寝ぼけていたのだ。これがフェルメール!?なんでだ。見当違いもはなはだしい。う〜ん、昨日のH氏宛ての恥の上塗りメールがますます恥ずかしく感じられる。
私があれをフェルメールと早合点したのは「画家のアトリエ」と「オランダ絵画」、この二つの単語が目に入ったことと、あとは画中のベラスケス自身の目線の先にあるものの解釈が私とフーコーとで異なっていたのだ。昨日の日記に対するphlebas氏のコメントに触発されて、初めてあの絵を見たときの感覚を思い出した。あれは小学校か中学校か、兎に角大昔だ。なにこの画家、カメラ目線の自意識過剰男じゃん、くらいに思っていたのだ。そこには私自身は不在で、絶対的に超越していたので画中の画家ごときが私という存在を認識することなど不可能であったのである。しかしよくよく考えると「カメラ目線」ってことはある意味フーコーの解釈に近いよね。それが後々、フェリペ4世だとか、マルガリータだとかハプスブルク家とかお輿入れだとか、さまざまな情報が入るにつれて自分の目に映ったままを見るのではなく、知識で絵を見るようになっていたのかもしれない。絵に対して外側から意味づけをしてしまえば人は安心できるし楽になれるのである。極論かもしれないが、超常現象(というか昔の人には原理が理解できない自然現象)に命名することによって未知のものを既知のものにするという合理化と同じ種類のものがそこには見られる気がするのである。気のせいかもしらんが。いつの間にか絵の見方に正解を求めていたのだろうか。いかんいかん。