表現次第で如何様にもなるという事実

今日もケーキを食べた。グランクリュのチョコレートのムースとモンブランである。私が特に気に入っているのはモンブランのほうだ。甘さは控えめで上品な味わいで、搾り出されたマロンのクリームが見た目からしてもこちらのやる気を呼び起こす。渋皮がたっぷり入っているとこげ茶色になり、全く入っていないと明るい黄色になるところだが、こちらのクリームはその中間といったところか。これを食べるのはこれで2回目だがやっぱり美味しい。
食している最中、幸せをかみ締めながらふと妄想。これ、意識していやらしい表現をしたら実際の味がどれほど美味しくても食べる前に人をしてやる気を損なう効果があるのではなかろうか。例えば「搾り出された栗クリームがドーム上で譬えるならば人間の脳であろうか」とか。食べたくないよなぁ、そんなケーキ。言葉ってすごいな、呪縛だな。とすると雑誌などで料理やケーキの特集があるといつでも美味しそうに思えるが、そう判断する自分の感じ方にも疑いの目を向けるべきであろう。写真なんていくらでも美味しそうに撮る細工ができるし、紹介文に関しては上に述べたとおりである。やはり雑誌を頼りにするより実際に足を運んで自分の嗅覚を磨かなければなるまい。だいたいガイドブックが当てにならないのなんて、学部生時代の盛岡・紅茶ショック*1で実証済みではないか。だけど世の中には受け入れられるんだよネェ、ガイドブック。

*1:盛岡、花巻を旅行した際にガイドブックに掲載されていた紅茶専門店に友人と連れ立って赴いたところ、入り口に湯気(実際はただのスチーム)の出る馬鹿でかいティーカップ(よくラーメン屋などで見られるドンブリのアレのティーカップ版だ)が置いてあった。その時点でかなり嫌な予感はしたがなんとなく後に引けずに入店。中には得体の知れない西洋の甲冑が飾られ、女主人はメニューにはそれを必要とするような料理が見当たらないにも関わらず何故かキャベツの千切りをしていた。頼んだアールグレイは想像を絶する味わいで、最後まで飲みきったものの店を出た途端に気分が悪くなって倒れた事件である。