「べた褒め」

昨日の日記を読み返すと、そのとき私がどれくらい動揺していたかが如実に現れていた。ほんと、予期せぬ出来事に出くわしたときに弱いよな、私。うろたえぶりが不様だ。普段の私は実にエラそうで家族の中でも家庭内実力者としての地位を確立しているだけに客観的に自分を眺めると相当面白い。現在では既に自分の考察している対象のものを作った人に自分の文章を読まれている可能性を認識しているので全然問題ない。どこからでもかかってこい、と若干強気に出られるくらいだ。本当にかかってこられたらまた見っともないくらいに狼狽するのだろうけどさ。それに見られているかもしれないけれど見られていないかもしれないという不確定さが緊張感を生み出す。ミシェル・フーコー思い出しちゃった。あの監獄のやつ。囚人監視用の塔の人が自分(=囚人)を見ているかどうか分からないあの状況。
ところで「べた褒め」に違和感を感じていたのでもうちょっと考察してみた。動揺していたために昨日は自分のこの違和感を言語化することができなかったが、実のところ私自身は褒めている自覚が全くなかったのだ。「褒める」という行為は褒める対象の人間が存在して初めて成立する行為であり、私が最初にあのJuniperの小説に対して感想を述べていたときはそれを書いた当人に読まれる可能性などまったく気づいていなかったので、つまり対象不在の状態である。ゆえに私の行為は「褒める」という動作にはなり得なかったのだ。単に自分が感じたところのものを言語化しようと試みて失敗(なぜ惹きつけられるのか理由がわからないから)しただけなので、要するに独り言である。独り言で他者を褒める人間がこの世に存在するかどうかは分からないが少なくとも私はそういう人間ではない。
しかしそれを私の心的状況を知らない人間が目にすると「べた褒め」になるのだ。これは面白いことではないか?この間書いた「真実と現実」と同じ話だよな。世の人々はこういう行為に対して「褒める」であると認識するものなのかと今更ながら学んだわけだ。
しかしまだ他にも可能性は残されている。私の「褒める」に対する定義が誤っている可能性だ。ひょっとすると自分が好ましく感じたことを述べることを世の中では「褒める」と言っているのかもしれない。この辺は辞書で定義を確認しなくてはならないところだろう。それからまだ別の可能性もある。世間でも私と同様の定義を「褒める」に下しているかもしれないが、私の書いた文章を記号化するにあたり、他に適当な語がなかったために「べた褒め」が採用されただけかもしれないのだ。
こうやってあれこれ考えないと気がすまない私は本当に面倒臭い人間であると自覚しているけれども、考えるというのは面白いな、やはり。私は例の小説にすごく惹きつけられたし、あの作者が他にも書いているなら是非とも読みたいし、Juniperの表紙には「1」ってあったから2号も出るなら購読したいとも思う。「好き」とか「素晴らしい」とかそういう言葉では説明つかない惹きつけられ方をしていて、それを解明するために他の人にも読んでもらって論じたいと思うけれど多分そんなことの相手をしてくれるほど暇な人間はいないだろうから一人でなんとかするしかあるまい。ちなみに今日は「ストームライダーは」から「アメリカの妖怪だ。」までの中の、この「アメリカの妖怪だ」が好きだった。こうやって書くことを多分人は簡単に「褒める」だと思うんだろうな。それで良いのかもなぁ。とりあえず考えるだけ考えたからもう何でもいいや。