赤さんが欲しい

取手行ってきた。院生時代の先輩が昨年出産され、今日その赤さんにお目通りが叶ったと言うわけだ。普通の乳幼児に対しては私も勿論「赤ちゃん」というのだが、この先輩には非常にお世話になったので、そのご子息に対して安易に「ちゃん」付けなどできぬ。敬意を払って「赤さん」だ。
高校生の頃私は乳幼児が嫌いで、電車などで赤子を見かけるとこやつらが泣いて私の読書を妨げるのではないかと常に警戒し心を許したことはなかったが、年をとるにつれて街中で見かける縁もゆかりもない子どもに対しても可愛らしいと思えるようになってはいた。しかしだな、大変お世話になり、かつ尊敬する方のご子息だと思うともうその辺の素性の知れない子どもなどとは比べ物にならないほどに可愛い。なんでこんなに可愛いのだろう。「孫」という歌の歌詞に「なんでこんなに可愛いのかよ」というフレーズがあるがまさにその心境。私の顔を見て笑顔を向けるだけで何故か目頭が熱くなる想いだ。私は常々、幸せになるには美味しいものを食べることが一番即効性があると思っていたが、この赤さんの笑顔と言うのは美味しいものにはる。という事で私も赤さんが欲しい。
赤さんがいたら色んなことをして遊ぶのだ。友人たちには何度か言ったことがあるが、世間のスタンダードとは異なった言葉を教えたいと思う。例えばトイレは「雪隠」だしくしゃみは「くさめ」だ。子どもが成長し、幼稚園などで先生に尿意を訴え「雪隠、雪隠」などと言っても今時の若い先生には通じるはずもなく、仕方なくそこでお漏らししちゃったりして。小学校でくしゃみを「くさめ」と言って他の生徒たちに「おかしい」とからかわれ、自分の認識と世間とのズレを体感し帰宅してから私に向かって涙を目に浮かべながら「なんで普通のことを教えてくれなかったんだ」と怒ったりするのだろう。面白い。
現実問題として今の私は赤さんなんか産んでる場合じゃないし不可能なので、帰宅してから母親に「もう一人お願いします」と頼んだら断られた。自分で産め、だって。いいなぁ、赤さん。赤さんで遊びたい。
しかし取手って遠いなぁ。最初は池袋で友人と落ち合って出産祝いなどを選んでから向かったので「なんだ取手って近いじゃん」などと思っていたのだが、帰りが悲惨だった。私んちへはめちゃめちゃ遠かった。この距離では気軽に赤さんに会いにいけないではないか。きっと次会うときにはもう歩いたり喋ったりするようになってるんだろうな。いいなぁ、子どもって。子どもと同じくらいのペースで私の精神性も成熟したらよいのに。