願い事三つ

一度「ハングルをやる」と宣言したにも関わらず図書館が休みだったという程度の理由で断念するのはいかがなものかと思い、3月末に買ったラジオのテキスト4月号をやおら取り出したものの、何故これを買いながら勉強を放棄していたのか理由を思い出した。音がないから文字だけ見てても正しい発音が覚えられないのだ。ダメじゃん、テキスト無駄じゃん、ということでCD付の韓国語の本を買ってきたのだが、私んちCDプレーヤーなかったんだった。
今日会ってきた友人の話。なんでもビバリーヒルズ青春白書が大好きだったそうで、中学時代はあれを見ながら私も大人になったらああいう生活するんだ、取り合いになったりするんだ、と思ってたら違った、寧ろ余ってた、と言っていた。いらない心配ばっかりしてた、とも言うので尋ねてみると「一度に二人の人に好きになられちゃったらどうしよう」とか「私がバレンタインにチョコあげて*1争いが起きたらどうしよう」とか。「今思えばチョコあげる人がいない事を心配すべきだった」とも言っていた。ビバヒル以外にもいらない心配はしていたそうで「3億円手に入ったらどうしよう」とか。
中学生というのはいらない心配をする年頃なのだろうか。私も思い起こせば中学時代、願い事を三つ叶えてもらうとしたらどうするか、という事をよく考えていた。絶対譲れなかったのが「天才にしてもらう」。次が「絶世の美女にしてもらう」。最後が「あと願い百個叶えてもらう」でエンドレスで願いを叶え続けてもらう魂胆であった。しかし塾帰りの夜道などで「美人になったら暴漢に襲われちゃう!どうしよう!願い事訂正、やっぱ美人じゃなくていい、寧ろ不細工になりたい」などと本気で怖がっていた。こんな程度のことで本気になれたあの頃は幸せだったものだ。
割と大人になってからは、ていうか大人になってもまだ考えていたのだが、50億円くらいほしいと思ったのだが、良く考えると長い人生、インフレが起きるとも限らない。よって物価スライドを考え、常にその時代の貨幣価値で50億円くらい入金されてる銀行口座がほしい、になった。こう書くといかにも私が金に執着した人間のように思えるだろうが違う。あんまり金稼ぎに興味がないのである。でも勉強したいし旅行したいしオペラ観たいしバレエ見たいし美味しいもの食べたいし、私の人生には兎角お金がかかる。だから他力本願なのである。ていうか「他力」ですらない。まあ生きていける程度稼げてればいいや。

*1:勿論空想のお話なので具体的に誰かにあげるとか言う話ではない