博士の愛した数式

小川洋子著 \438 新潮文庫 ISBN:4101215235
思ってたよりも大丈夫でした。主人公である家政婦が、それまで数学なんぞに縁なく生きてきたのに、博士と交流することによって数字に興味を持ち、易しい問題ではあるのだけれどそれを誰にも教わることなく自力で真理に辿り着いた時の心境、素敵に描けていたと思いました。そうそう、数学の美しさは、別に難しい定理を証明できるかどうかじゃなくて、簡単なものでも自力でそれが本当に「正しい」ことを理解したときに実感するんだよねぇ、と。
ただでも若干引っかかりはあって、それは数学の描き方とかそういう問題じゃなくて、博士の描かれ方だね。事故で脳に障害を負った博士は記憶が80分しか持続しないのだけれど、この「80分しか持続しない記憶」というのは、やはり常人には想像しきれないものだったのではないかと思う。矛盾に感じることが多々あり、かといって私だってそういう人物がどのように描かれてたら違和感がなかったのかはよく分からない。ただ描ききれてなくてちぐはぐな感じは否めなかった。80分で博士が完全にリセットされてしまうような場面がところどころにあったのだけれど、完全にリセットってちょっとおかしくないかな、と思ってしまうのです。例えば80分の間、家政婦をしている主人公が例えば買い物などで外出してしまうと、帰ってきたときには忘れられてたりするんだよ。その80分の間に博士が彼女のことを思い起こしたりしていれば、完全に忘れきるということはないと思うのだけれど。数学者である博士が子どもに対して、ちょっとギョッとしてしまうくらいに無償の愛情をしめしていたり、脳に傷を追う以前はプロ野球が好きで新聞の切抜きやらプロ野球カードやらを沢山集めて丁寧に保管していたにも関わらず、野球をテレビで見たことも、ラジオで聞いたこともなかったり、とても家政婦と同じ人間とは思えない描かれ方をしていたよ。理系、という言葉でくくるのはイヤなんだけれど、実際理系の研究者の中にはかなりエキセントリックな人もいて、そういう人を目の当たりにしたときに、人によっては得体の知れない、理解できない生き物を見るような目で見て、分かり合おうという気持ちを最初から持とうとしない人がいて、そういうのは寂しいなぁと私などは思ってしまうのです。変わっていようがなんだろうが、同じ人間なんだ、という認識があまり感じられなくて。そういう意味でこの作品の中で博士という「人間」が人として描ききれていない感じがして、ちょっと寂しかったです。