二十代最後の年の末に青臭さを全開す

もう10年くらい聴いてなかったCDを聴きながら作業をしていたせいか、なんだか感傷的な気分になってきてしまった。高校時代を思い出すというか。高校時代というと、思い出すだけで死にたくなるようなことを一杯やったり書いたりした記憶が。いかん、今こんなもん書いてたらあの頃と同じ事をしそうだ。こう、世界の中で自分しか存在していないような錯覚というか、まったく周囲を意識することが出来なくなってたんですよ、夜になると。人に言わせると感受性が強いという事らしいが、自分であれこれ想像して、さまざまな条件を加えたりして、あくまで想像の域を出ないのにその気になりすぎて涙したり。それでそのままの状態で文章書いたりして、翌朝それ見て憤死。こんな恥ずかしいものを書いたのは誰だ。私か。そうか。誰か私を殺してくれ。そんな感じです。今だって同じ愚を冒す危険があるのならば書くのやめればいいという話ですが、私の場合誰かに自分の話をするか或いは文章を書くことで頭の中を整理する習慣があるので致し方ないのです。相手を見つけて話す場合だと途中から独り言になる可能性が非常に高く、相手にとっては迷惑だしこの年齢でその戯言に付き合えるほど暇な人もいないということで、必然的に書くしかないわけですね。
中学時代に通っていた塾にとても仲の良い男の子がおりまして、彼は周囲の人間から口を揃えて「変わっている」と評価を下されるような人だったのだけれど、何故だか私は知り合ってからあっという間に仲良くなったのでした。あまり男の子と話をするのが苦手だった当時の自分を思い起こすと、今この文章読んで信じがたいと思った人いたでしょう。本当なんだよ。今でこそこんなんだけどね、大学入るくらいまで殆ど男の子と口をきかなかったのだよ、私は。奥手であったというよりは異性に興味がなかったという方が正しいのだけれどね。高校時代も同級生の男の子のことを考えるよりも、狙撃兵にいつ撃たれるか分からぬ中、生活のために水をくみにいくムスリム人の少年ヤスミン君のことを考えるほうが楽しかったのだよ。そうか、分かったぞ。「男の子」には興味がなかったけれど、同じ塾に通っていた彼のことは、独特の世界を持っていて面白そうな人だったから興味を持って、だから仲良くなったんだな。分かったからといってどうという話ではないけど。
とにかく彼とは興味を持つ対象も似ていれば笑いのセンスも近く、色んな本の話もできるし、それまで私が知らなかったことでも彼の興味のあることは私にとっても刺激的で面白くて、何時間でも話していられるし楽しくて幸せだったのを今でもよく覚えている。そんな関係が終わってしまったのは、受験が終わったために塾に行く必要がなくなったためで。同じ中学でもないし進学先も違ったので会う機会がなくなってしまったのだな。そこで彼のとった行動とは、多分普通のことなんだろうけれど、映画に誘ってきたのですね、私の事を。ここから先がいままでどんな人に話しても全く理解してもらえないことなのだけれど、私は彼に映画に誘われて嫌悪感しか感じなかったのです。
順を追って説明しましょう。私もそうそう鈍感でもないので、このまま誘いに応じて会ううちに告白されるのだろうという予測は出来ていました。まず第一にその「手順を追ってる感じ」がイヤだった。それから次に、付き合うということは当然ながら手をつないだり、それからあんなことやこんなことやキャーッ!汚らわしいわっ!!と先走って嫌悪感を得るに至るというわけです。考えすぎですか?まあそうでしょう。でも当時はそう思っちゃったんだもん仕方ないよ。一緒にいて話しているだけでこんなに楽しくて幸せなのに、あえてその関係に名前をつけようとするのは、一緒にいるだけでは飽き足らず何か良からぬ欲求を抱いているのではないか、そう思ったのですよ。筋が通ってると思いませんか?思いませんね。はい、分かりました。
というわけで電話がかかってきてもそっけなくし、誘われても適当な口実をつけて断ったりしているうちに連絡も途絶え、私はすっかり高校生活を満喫していたわけです。地元の中学が合わなかった私にとっては初めてともいえる「楽しい学校生活」で彼のことも徐々に忘れ始めた高校2年の夏、再び彼から連絡を受けました。その時ははぐらかす余地がないほどはっきりと好きだといわれ、そんな電話なのにも関わらず何故か第二次大戦中の日本軍の兵士が南方戦線で人肉を食べた話などをされたり、白虎社や大野一雄のことを聞いたりして、長いこと会っていなかったのにどうしてこの人の話はいつでも私にとって刺激的なんだろう、だけど付き合うのはやっぱりムリ、と私も相当混乱していたわけですが、一度直接会わないわけにはいかなくなって会うことになりました。
公園で、日ごろは相手の目をみて話をする私が敢えて目線をはずし、極力相手が視野に入らないようにしていたこともあり、会話が弾むわけもなく気まずい沈黙が続く中、口火を切ったのは彼の方でした。「好きです」と彼。意思表明をされただけなのでこれは返答を求めるような類の発言ではなく、よって私は沈黙を続けてヨシ、と自分に許可を出し黙り続けていたら先方も、恐らく困ったんでしょうね、「どうですか?」とか聞かれたように思う。「どうですか?」だと?何がだ。何に対して質問しているのだ。そういう意味を込めて「好きだからって何なの?」と答えた覚えがあるのだが、これは酷な返答だったかもしれない。今の私だったら私が感じていることを説明することもできるだろうけれど、当時は私もまだ幼く、なにも伝えることができないままで終わってしまった。
それからもうずっと後悔しっぱなしで、それは勿論「あの時彼と付き合うべきであった」などという安っぽい後悔ではなくて、私は結局自分の考えも感情も殆ど彼に伝えることができず、彼の真剣な気持ちに対してこちらも真剣に正面から向き合って彼のことを振ることができなかった後悔だ。中学時代あんなに仲が良くて私自身も彼のことは大好きだったのに、彼にしてみれば私が態度を豹変させワケが分からないまま振られたわけで、嫌われた原因がわからないままにしてしまったのは全て私の責任なわけで、本当に私はひどいことをしてしまった、としつこいぐらいに引きずりつづけましたよ、本当に。だって院生時代にわざわざ連絡とって謝ったもん。あの時はちゃんとできなくてごめんなさいって。それからは時々メールで連絡取るくらいの仲で、彼は相変わらず面白い人生送っていたので興味深かったし、子どもの頃に仲の良かった人と再び親しく出来てよかったなぁと思いつつ去年久しぶりに会ったら滅茶苦茶手の早い人になっててすごいショックを受けた。人間って、ちょっと会っていないとあっという間に汚れてしまうものなのね。夜陰に紛れて手を出すの禁止。死ねばいいのに。
そんな話がしたいのではなかった。人を好きになることと付き合うことが直結しない、という事を考えたいのであった。いえね、あれからもう10年以上も経ちましたし、それまでの間にお付き合いした方も何人かおりますし、今なら当時の彼の気持ちも分かるのです。「付き合う」=「汚らわしい」じゃなくて、あれだけなんでも話ができて刺激があって楽しければ、もっと一緒にいたいと思うのは当然だと思いますよ。今の私は、共依存関係に陥らずに互いに好きなことをやれて精神的に自立し、尚且つ相手の好きなことが私にとっても刺激になり、人生において考える必然性のないことまで一緒になって考えられる相手がいたら、やっぱり好きだと思うし一緒にいたいと思うわけです。そうするとかつての、子どもの頃の私が現れて、「好き」と「付き合う」は直結するワケ?とつっこんでくるのです。単に相手を好きだと思って、話ができるだけで幸せなら別に付き合う必要ないじゃん、と。「好き」「話をしたい」から「付き合う」に至る思考の経路が見つけられない。付き合いたいと思ったら付き合えばいい、などと言われそうだが、そもそも「付き合う」という事がどういう事なのかがよく分からない。おかしいですか?多分おかしいのでしょう。でも理詰めで納得できないと行動がとれないことがままあるのです。「好き」は大丈夫なんですよ。別に。だけど相手を好きだからといって、何故あえて関係に名前をつける必要があるのか、一緒にいて話すだけなら特に「付き合う」などというアクションをとらなくてもよいのではないか、全然分からないのです。だから誰かを好きだと思っても、そこから何らかの具体的なアクションにつながるわけがないし、ゆえに必然的に受動的に、相手からオファーがあったら受けるといった態度になってしまうのでしょう。なんで私はこんなにややこしくて面倒くさい性質をしているのだろうか。もっと楽に生きたい。
ひょっとしたら単に腰抜けなだけ、という可能性にも気付いたぞ。仮に私が「好き」だと思う相手に「付き合う」という可能性を相手に提示した時に、相手から却下されてしまえばそれまでの、会話をして楽しく感じていたそんな機会すらも失われるわけで、そもそも考えてみるともっと話がしたいと思っているという事実が根底にあるのだから、話す機会を失うリスクを負うよりはそれまでどおりの関係のままの方が安全であると判じているのだろうか。ああもう何なのだろう。「私」が何なのかよく分からない。以前ある人に「銀河鉄道999」の車掌さんに似ていると言われたことがあるのだが、その真意というと「がわは知れてるけど実態がわからない」という意味で、今まさに私は自分に対してそういう感想を持った。ほらね、こうやって結局いつも自分のことしか考えてないのだ、私は。もういい加減青臭いのからは卒業したいのだけれど、筋金入りなのでムリかもしれない。書き出したときは感傷的な気分だったはずなのに、いつのまにか冷静に客観的に自己を省みて分析し始めていた。なんで考えてしまうのだろう。考えずにいられたらもっと楽なのにな。恐らく同年代の人と比べると私は自分の人生しか背負っていないから、自分のことばかり考えるだけの余裕があるのだろう。裏を返せば自分のことしか考えられないから他の人の人生まで背負えないのかも知れない。まあいっか。今日も長々と、よく書いたなぁ。