面白さについて考えたい

昨日買って来た玄米と黒米とで見事な紫ご飯が出来上がる予定がくすんだ紫ご飯になってしまった。ホラ、玄米って精白されてないから。しかも炊き上がり時間をなめてて白米炊くのの2.5倍くらいの時間がかかってしまい、結局玄米おむすびを持っていくことあたわず。「耳年増」のところで見たナイススティック・セレクションなんか食べてます。こういうパンって今でも無くなってないんですね。意外です。
昨日入浴中に土屋賢二の本を読んでいたのですが、ツチヤの本は似たようなタイトルが多いのでどれが既読でどれが未読か分からなくなりやすいのがやや難です。結局昨日読んでいたのは2回目の購入だったみたいだし。しかしツチヤにとっては残念ながら、黄色い本屋で購入したので彼に印税は入りません。
彼曰く一度でも受講したらツチヤに対する恩義が発生するらしいのだけれど私の場合在学中に彼の講義をとったことはない*1のでセーフです。彼は恩師ではありません。彼が母校の教員という事で、時々その著作を風呂の中で読んだりはしますが、大抵読んでいるときは著作の面白さについて考えてしまいます。
人が彼の文章に面白さを感じるとするならば、それはきっと、想定されるルールから外れた表現があるからだと思うのですが、私個人としてはその程度では不十分ではないかと思うのです。今手元に彼の本が無いから具体的に示すことはできないのだけれど、ルールを外すにしても「どのルールを外したか」が明確になっちゃってたらあんまり面白くないんじゃない?という話です。私が希望する外し具合としては、ルールなどを超越した訳の分からなさが上げられます。
笑いについては去年もベルクソンの「笑い」を読み始めて途中で投げ出した*2ように、予てから感心があるのですが、ベルクソンを読んでいるときに、人間には意識とか理性とかがあって、何かのアクションを起こす際には自分で考え選択しているはずにも関わらず、例えば転ぶなどといった自動運動が見られたときに意に反した運動をしているということで、おかしみが発生するというようなことが書いてあって、それを読んだ私は「なるほどな」と関心したりもしたわけですが、一番面白かったのは知人がその「自動運動」をやった時に「君は今、自分の意に反して自動運動をしたわけで、本来ならば思ったとおりに行動できるはずなのにそれができなかったから面白いのだよ」と説明した時の相手の反応*3でした。
本当は笑いについてもっと考えたい、私が何に対しておかしみを感じるのか掘り下げたいと思っているのですが、時間が無いのでやめておきます。そしてここでやめたら次は無いのだろうな、とも思います。飽きっぽいから。

*1:ちなみに藤原正彦の授業はとったことがあります。数学じゃなかったけど

*2:飽きたから

*3:「うるさい」とうんざりされた