言葉のあやを解さない

友人を拙宅に招待したいのですが、自室を片付ける決心がつかずお誘いできていません。今週末には何とかしようと思っているのですが、この際片付けのめどがつかないままお誘いしてしまえば、相手が拙宅に来る前日の晩にでも泣きながら徹夜して部屋を片付けるであろう事が予想されるので、何らかのアクションを起こす場合に数ヶ月から数年時間を要する私には良いかもしれません。自らを追い込むという事で。ところで拙宅というからには一人称は拙者でないといけないのでしょうか。しかし拙者などと言っている人はハットリくんくらいしか知らないので、別に意識せず使ってもよいのかもしれません。それ以前に日常に拙宅とか言ってる人も聞かないという事に今気付きました。
ところで昨日の私の日記の「海外なんて仕事で行けばいいんだよ!」に対する考察は、読みようによってはすげえ厭味っぽいのではないかと気付きました。他意はないのです!言葉を額面どおり受け止めすぎるだけなのです!言葉のあやというものを解するのが困難なのです。しかし言葉を額面どおりに受け取ってはいけないのであったら、相手のいう事の一体何を信じればよいというのですか!?
そういえば久しぶりに恋愛や結婚という事について考察してみました。といってもこの私が*1考えることなので一般に興じてもらえるような内容ではないのですが。かねてから不思議でならないのですが、何故中高生になると人々はほぼ一様に色気づくのでしょうか。最近の若い人は違うのかもしれませんが、気が付くと修学旅行、臨海学校の夜は「○○くんが気になってる」とかそう言う話題で盛り上がっており、色気づくタイミングの同時性に私は昔から不思議さを感じていたものです。つまり自身はそのタイミングで色気づかなかったという事で。高校2年のときなんか元々2〜3冊本を持参していた上に夜の外出時間では本屋で本を購入(当時色んな店のブックカバーを集める癖があったので)、夜通し本読んでました。
こういう「色気づくタイミングの同時性」って、学習によるものではないかと思うのです。例えばある一人の女子に恋人ができ、そこで人生で初めて、他の女子と違って自分だけが特別に扱われる経験をし、それを居心地が良いと感じる。それを周囲で見ている女子も、自分もそのような状況に身を置いてみたいと思うようになり、手近なところで頃合の良いものを見繕うとか。間違ってますかね?間違ってるかもしらんですね。間違いついでに言い切ると、中高生男子が色気づくのは学習によるというより寧ろ「さかりがついた」という感じじゃないですかね?馬鹿にしすぎですか?馬鹿にしすぎですか。勿論上記の推論に対して私自身が外れているので男子にも例外は多いと思いますが、数年前も図書館で仲良くならんで座っている高校生の男女を見かけたのですが、男のほうが不自然に女の背に手を回し、会話に打ち興じるというよりは話そっちのけで相手の様子を窺いつつ次第にその手が女のシリの方にシフトしていくわけです。これをさかりがついたと言わずして何という。
それから結婚について。こちらはまだまだ考えるべきことが多いのですが、生活している地域などで嫁ぐ年齢に差があったりする気がしているのですけれど、これは結婚するタイミングが自分の属する社会からの影響を受けているという事ではないですかね?つまり、完全に自由に、自分が結婚したいと思える相手と出会った時にするのではないのではないか、という事ですよ。いや違うかも。自分の属する社会が求めるタイミングに応じて結婚したいと思える相手に出会う人が多いのか。よく分からん。数年前に私の従妹(愛知県出身)が、彼女の父親(私にとっての叔父)が子離れできず、大学卒業した時点で「運気が悪いからあと5年は結婚しちゃいけない」と訳の分からない理由で結婚禁止を言い渡されて大層憤慨していたのですが、その次に続いた発言がこれ。「あと5年って言ったら27歳じゃん!遅すぎる!嫁ぎ遅れ!」。
「嫁ぎ遅れ!」は私の脳が勝手に補完したのかもしれません。それを言われた私は当時27歳。「私が幾つだかご存知か?」と言ってみようかと思ったが相手を困惑させるだけで面白くないので黙っとりました。寧ろ内心で「私が幾つだとお思いか?」と思いつつもおくびにも出さず、ニコニコと「本当に困った叔父さんねぇ」と同情していたほうが面白いと思いました。面白さを感じるのは私だけだけど。
しかし東京で27歳で結婚って、普通じゃないすか?学歴が高くなればなるほどもっと遅くなるし(といっても大概は30歳くらいまでに嫁ぎ先が決まる)。これはつまり、自分の心から湧き出る自然な欲求によって結婚を決めているのではないという事ではないでしょうか?明らかに極論ですが。要するに私は、恋愛でも結婚でもなんでも良いのですけれど、世の中の人々の多くが、多少の誤差はあっても同じくらいの時期に同じようなイベントを経験するという同時性に不思議さを感じているわけです。どうしてなのかねぇ。もしかして私の、恋愛やら結婚やらという状況、制度の定義に対する理解が間違っているとか?そうかもしらん。だったら考えてもしようがない。
結婚といえばタイゾー議員ですが、彼のブログを読んだら脳ミソが溶けるかと思いました。「国会議員である」という点を除いても、ある意味すごい人であることは確かです。しかし、ブログは辞めておいた方が良いのではないですかね。

*1:ビバリーヒルズ青春白書ではブランドン「この僕が」、ディラン「このオレが」を多発するのが鼻につきました。そのため私自身が「この私が」と使うと常に脳裏にディランの顔が浮かぶようになってしまいました…。