何をやっても許されない人

朝道を歩いていた時にぼけーっと思い出していたのは知人の職場にいるという驚異的な人のことなのだけれど、驚異的なのは仕事のできなさ加減らしいのですがその「できない」理由が能力的なものというよりは人間性による部分が大きいらしいことに思いを馳せていました。自分に振られた仕事は殆ど派遣かバイトに振り、夜はその自分が仕事をふった派遣やバイトよりも断然早く、皆が22時とか23時とかまで働いてるのに19時くらいには帰ってしまい、そして朝は遅刻。遅刻の理由を尋ねると、ちゃんと間に合う時間に最寄駅には来ているが電車から降りて日光にふれると目が見えなくなるから道が分からなくなる、と答えるそうです。じゃあ道に迷う時間を見越してくれば、みたいなことを誰かが言ったら今度は遅刻ギリギリの時間に来て会社に入るなり入り口で倒れたそうで、劇団ひまわり以下の演技力だったそうです。
私はその本人を見たこともないのでなんとも評価しようがないのですが、じわじわと「いやだなぁ」と思う部分があって、それは何かというと、知人の会社は出版社なのですが、その驚異的人物(肩書きは編集という事になっている)は上にも書いた自分の仕事を代わりにやらせている派遣やらバイトやら、果ては印刷所の人に対して大層高圧的で偉そうな態度を取るそうで、それこそが私の感じるいやなものなわけです。編集者が印刷所の人を下に見るって、どういう態度かよ。
で、本人を知らない私としても聞くだに、こういう人とは一緒に働きたくないなぁ、と思うのですが、実際一緒に働いている人もそう思っているらしく、中にはあからさまに口を全くきかない人が複数いるそうです。そういう状況になるのは自然なことなのかもしれないけれど、あんまり誰も幸せじゃないなぁとも思います。誰かと口をきかない状況で働くのって、つまりイライラしながら働くわけで楽しくないし。そして残念ながら人間と言うのは私自身も勿論当てはまるのだけれど、嫌いな人間のことは何でも癇に障るようになってしまうのですね。例えば全く同じ程度の、割と些細なミスを可愛い女の子(外見だけの問題じゃなくて雰囲気とか人間性とか色々ひっくるめて可愛い子ね)がやれば笑って皆が許すものも、上記の驚異的人物がやるときっと許されないわけで、許されなかったその時点で彼女(=驚異的人物)は「何をやっても許されない人」であることが確実になるのでしょう。過失の程度が同程度でも許される人間と許されない人間がいることについて10代の頃から割と考えてきましたが、感情を排除して論理だけで考えれば実に納得いかないこの状況が、感情をまじえるとごく自然に発生してしまうのに不思議さを感じています。ちなみに上記の彼女(=驚異的人物)は実際さほど可愛くないらしいのですが、それにも増してブサイク扱いで今では陰で「ロナウジーニョ」と呼ばれているそうです。この彼女が人好きのする性格ならばそのブサイクな造詣も「個性的」とか言われたり、表情豊かに素敵な笑顔の一つでも見せたらきっと可愛らしく見えるだろうに、現時点では「ロナウジーニョ」だそうです。ロナウジーニョはすごい選手ですが、悪意を持って誰かが彼の名で呼ばれるような状況に身を置くのは誰にとっても楽しい状況ではないので、悪態ついてストレス発散とかじゃなくってもっと根源的に、みんな能天気にへらへら笑っていられるような状況になったらよいなぁと思います。