昨日の日記について更に

数ヶ月前にも書いたが最近乳が若干でかくなって内心喜んでいたら単に太っていただけだった。体重計に乗ったら今までに記録したことの無い数値がそこにあり、一瞬めまいで目前真っ暗。人生における最重量。こうなったらめざせ樽ドルか。我、三十路にして樽ドルを志す。ウソです。思ってみただけ。はぁ、もう昔のように好き放題食べたい放題の自堕落な生活は送れないのだわ。
昨日の日記に、同じことをしても許される人と許されない人の区別がある不思議について少々書きましたが。あれ、間違い。罪に対して罰が決まるんじゃないもんねぇ、だって。法律のことはよく分からないので本格的な罰の話じゃなくって、例えば人がミスをした際の周囲の冷ややかな反応やらお説教やらを「罰」とした場合の話だけど。そもそも何故ミスが発生した場合にお説教が起きるかというと、つまり同じ過失を繰り返して欲しくないという思いがそこにあるからであって、お説教の重さは「繰り返して欲しくない」などの思いの強さやなんかに寄るのでしょう。だから昨日書いたような、可愛い女の子がミスをした場合(或いは自分が親しくしている人がミスをした場合)、それを周囲が笑って受け入れられるのは、次にまた同じようなミスが起きても皆でフォローをする覚悟ができていたりするからなのでしょう。それに対し昨日書いた驚異的な人物が同程度のミスをした場合には、そもそも前提として周囲はその人物と一緒にいること自体にうんざりしているので、ミスをされればフォローという形でその人との余計な、不必要な関わりが生じてしまうのでますますウンザリ、次も同じようなミスをされようものなら更にヒートアップ。つまり、人によって同程度の過失でも許される人と許されない人の区別があるのは、「同程度の過失である」などという事実はどうでもよくって、ただ単純に、ミス以前に、人間なら誰でも好感をもつ相手ともたない相手がいるから仕方が無いという事なのでしょう。好き嫌いの別は論理じゃどうにもなんないもんねぇ。こんな簡単な話がなんでわからなかったのだろう、10代の頃の私は、などと思ったりしましたが、そもそもどうしてこういう事を考えていたかというと中学時代は割とよく私は女子に敬遠されており、つまり私自身が「許されない人」であったからで、10代の少女にとって自分があまり人好きする人間ではないという事実は非常に認識しにくかったのであろうと思われます。実際今だって事実としてあまり私は女子に好かれなかったという事を認識しているけれど、その原因はわかんないもん、全然。極小数の仲良くしている友達とは何の問題もなかったんだけど、主に殆ど口をきいたことの無いクラスメイトやら他クラスの女子生徒に嫌われていたのだよ、小学校高学年くらいから中学時代にかけて。嫌われているのにいじめにならないのは、どこかで私のことを怖がっていたのだろうと漠然とは感じておりました。多分私は「弱者」ではなくて「目障り」だったんでしょう。ちなみに高校は全く問題なかったけどね。中学3年の時にちょっとしたきっかけで親しくなった女子生徒が私について自身の母親に「あの子成績いいから性格悪いと思ってたけど違った」と言ったのが、その母親から私の母へ、私の母から私へと伝わったときは驚愕したが、そんな理由で大勢に敬遠されていたとも思えないしね。そして「そんな理由」と書いたものの「成績がよい」→「性格が悪い」の論理の飛躍は全く理解できないしね。当時も今も。いやしかしわかんないなぁ。俄かに思い出したけど同じクラスの、クラス委員かなんかしてた女子が担任に、要約すると「あの子成績いいからむかつく」という事を訴え、訴えられた担任は放課後私を呼び出し「勉強できない子にもっと気を使え」と説教されたことが。勉強の話どころか挨拶程度しかしないクラス委員の女子にどうやって気を使えばいいんだよ。
無駄にまとまりなく長くなったけれど、人間関係における大概のできごとは、相手を好ましく思うか否かで大雑把には決まってしまうものなのかもしれないですね。よく分かんないけど。