私の高校時代

数日前の日記にコメントつけていて思い出したのだが、私の高校時代は相当くだらなかった。ていうかくだらない自覚は勿論あったんだけど、それがどのようにくだらないか具体的に思い出したという事だ。例えば、私が図書委員会の中の読書会という部会の部会長をやっていたときのこと。ある時たまたま取り上げた本がヘッセ「車輪の下」だったのだけれど、全校生徒に読書会開催の告知のためのビラをばら撒いたときに上手くもない絵を添えたというか寧ろ8割方絵で欄外に本のタイトル、日時、開催場所を書いたのだった。ビラは全面的に筆ペンでかかれ(書道は苦手です)、その一番にスペースを占めていた絵は馬鹿でかい車輪の下に人が下敷きになっている絵だった。面白くもないし本当にくだらないよな。面白くないからそんなことをここに書く必要もないんだけれどさ、ある時普段接点がなく話もあわなそうな同級生と何かを一緒にやらなくちゃいけなかった折に、話題に困った同級生が、そういえば今度読書会やるんだってね、と言ってくるのでこちらも社交辞令で、よかったら是非参加して、などと心にもないことを返したらさ、
あれ、人が車輪に轢かれる話なんでしょ?
と言われたのだよ!衝撃的!!当時の私は勿論ふざけてそれをやっていたし私がふざけている事は誰の目にも明らかだったと思ったんだけど、真に受ける人がここにいた!不用意に不特定多数に対してふざけちゃいけませんねぇ。それがそのとき私が得た教訓でした。
それから。新聞委員会の委員長をやっていた友人ともっぱら放課後はありもしないシチュエーションを想定するだけ想定して実行は何もしないという超インドア派にふさわしい遊び方をよくしていたのだけれど、一時期あれこれ想像するのに凝っていたのが「イフ教」という宗教。信じる神の名は「仮定神イフ」。人は、ふとした拍子に本人も考えているという自覚すらない状態でどうでもよいことを思い浮かべたりするものだけれど*1、そういうものを気まぐれに叶える神が「仮定神イフ」。誰か一人を教祖にするとその特定性を知られると危険なので(何がどう危険なのかは不明だが)、教祖は週番制という事にし、信者と主にその宗教を開いた私と友人との区別がつかないように、誰が首謀なのかばれないように信者の名簿は丸く連判状にし、やっぱり何を恐れているのか皆目分からん。先輩であるというだけで権力を振りかざして新聞委員会の後輩やらなんやらを無理やり入信させたりもしたものだ。
ほんとうにくだらねぇな。

*1:たとえば、道で信号待ちをしているときに「あそこを走っているトラックの運転手がいきなり気絶して私のほうに突っ込んできたらどうしよう」とか。