再び「友達について教えてください」

昨日の分の日記を長く書きすぎて疲れちゃった。関係ないけれど今わたくし、クォン・サンウのファンということになっています。クォン・サンウの、と言うよりは「ファンである」という状態に違和感を感じる私ではありますが、韓国の人々と出会った際に「いくつか韓国ドラマをみたことがあるが、クォン・サンウは悪くないと思う」と言うよりは「クォン・サンウのファンである」と言う方が楽なので。しかしこれを言う度に「クォン・サンウのファンである、などという私はいったい誰なのであろう」と自己の存在の不確かさを感じたりして。誰かを好んでいる、と言うのには躊躇いを感じないのですが、ファンである、という「である」に含まれる自己認識に違和感を感じるのですよ。「である」というと「本当にそうなのか?」と問い直してみたくなったりして。
今日の授業は、何をしたのだろうか。そろそろ語学学校を卒業したいです。好きな映画は?などと問われてシュヴァンクマイエルと答えるとどうせ誰も知らないから懸命にハリウッドやらのタイトルを脳内で検索して「この間見たエラゴンはすごく面白かった!」などと答える生活にはもうウンザリです。いや、ちゃんとそれなりに楽しみましたけど、エラゴン。というか字幕なしで原語で聞いて楽しめた事実に喜んでいるだけかもしらんが。イタリアにいた際に知り合った人が、その人はその時すでにフィレンツェに2〜3年すんでいる人だったのだけれど、イタリアからイギリスに2週間ほど短期留学をしてきて、学校はどうだったのかと尋ねると「語学学校って嫌いなのよね、朝から体外受精の話なんかしたくないわよ」と。あの言葉の意味をいまさらながら実感。話題を選べない不自由さに涙。多分本当の初心者には語学学校は楽しいんだと思いますよ。会話の内容以前に会話できているという事実が楽しいから。イタリア語をやっていた際も最初はすごく楽しくて皆勤賞だったのだけれど、1ヵ月半を過ぎたあたりから飽き始めて不登校だったもんな。現在わたくし、まったく英語を解さない人が見たらペラペラ喋っているように見える程度には喋っておりますが、実際のところ語彙の貧困さから伝えたいことを単純化し、多少どもりながらでないと伝えられず精神的に疲れる、といったところでしょうか。不自由だわ。私のように喋りすぎ傾向のある人間には苦痛ですよ。思ったとおりに喋れないというのは。
そうだ、宿題が出されたのであった。友達について何か作文書いてこいと。最初はわたくし、大学時代に友人がヒキガエルのことを轢かれて死んだカエルの事だと勘違いしていたということについて書こうと思っていたのですけれど、これを英語で書くのって至難の業ですよね。つい何か書くとなると面白いこと(私にとっては)を書こうと思ってしまって困難なのですが。他に何か面白い話があっただろうか。しかし多分彼らはそんな面白さなど求めていないのだ、きっと。「彼女はやさしくて知性があって、でもユーモアもあって、ちょっと(何がしかの有名人の名前)に似ていて、年齢は大体私と同じで職業は○○で、私たちは学生時代に知り合い、今もよい友達です」とかそんな話でしょ?求められてんのって。あ〜つまんない。全然面白くない。面白くない文章を書くことに意味があるのか!? そんなことに時間を費やすくらいなら昼寝でもした方がマシじゃないのか!? …英語の勉強をしてるんでした、私。宿題の趣旨を履き違え。どうもスミマセン。