どうでもいい記憶

現在、すごい勢いで膨張中である。何がって、私の体が、である。まーえらい勢いでガレット・デ・ロワ食ってるからな。当然だろう。年末年始にあまり休めなかったりしたために若干痩せ気味であったところを、元通りの体型を通り越して暴走中。このままではあっという間に巨漢である。痩せやすいが太りやすいので過食すると一瞬で太る。ということで本日は中休みでガレット・デ・ロワはナシ。といっても昨日食べきれなかった分が残っていたので食べたには食べたけどさ。購入はしなかった、というだけである。
なんだか最近とみに頭を使わなくなっており、今日、なにをして生きていたかすらも記憶が定かではない。なんとなく生きていただけというか。死んでないから生きてるだけ、というか。要するに何が言いたいかというと、書くことが本当にないということである。もうやめたほうがいいんじゃないか? この日記。書くことないならやめりゃあいいじゃんね。もはや人生がだいたい終わったのかもしれない。おまけの人生に突入。だから記憶がないのか。枯れてきた。今日一日を振り返ると、朝起きて珈琲を飲み、仕事に行って帰りがけに世界堂でノートを購入。家に帰るとスーパーJチャンネルで日本語ペラペラ外国人によるコーナー『東京見聞録』をやっており、東京を見聞するコーナーの筈なのに何故かじねんじょを掘っていた。東京にもじねんじょ生えているのか?
じねんじょといえば祖母が亡くなる数時間前に、病院の近くにあるうどん屋に従妹たちと私の兄、父と共に食事に行った際に父が『じねんじょ定食』を注文していたのだが、食事を終えてふと目線を父の方にやるとじねんじょだけを残していたのを思い出した。意味わかんないな。ほんとにどうでもいい記憶だが。
どうでもいいといえば、葬式が終わった後に残った生花を皆いくらか持ち帰っていたのだが、花を手にした私の母が「ちゃんとお水やらないとカリフラワーになっちゃう」と言っていたのを思い出した。ますますどうでもいい記憶だ。どうしよう。俄に焦りはじめたぞ。記憶を辿ってもどうでもいい記憶しか発掘できない。こんなことで私は、人として大丈夫なのだろうか。
さらにどうでもいい記憶が蘇ってきた。親戚の26歳の女子で祖母から見ると曾孫にあたる者がいるのだが、彼女は祖母とずっと同じ家に暮らしていたため、その死がひどくこたえたようで随分と泣いており、死化粧を施す際には自ら化粧をすると言ったのだが他の親戚連中に「そういうことは専門の人に任せておきなさい」とたしなめられ、結局彼女の化粧品をその専門の人に使ってもらうにとどめておいたのだけれど、割と繊細でちょっとした事を気に病んだりする彼女はあとで「化粧をしたいなどと言って我が儘を言ってしまった」と益々泣くので、なぐさめようと「そんなことないよ、○○ちゃんの化粧品を使ってもらえておばあさまもきっと喜んでいるよ」と言うと、なきじゃくりながら「ちゃんと下地も使って欲しかった」と言われた。さすが女子。化粧の仕方すらよくわからぬ私のような者には思いもよらないこだわりだよ。あー、ほんとにどうでもいい記憶だ。あともう一個、葬式の間にネコを動物病院に預けていたときのことを思い出したのだが、どうでもよすぎる話が続きすぎたので本日は自粛。明日覚えていたら書こう。多分覚えていないだろうけど。