語学力の指標

2年前、ロンドンのハロッズにて。子どもの時分より、その実態が明らかではなかったために憧れていたクリスマスプディングなるものを買おうと私はフロア中探し回っていた。手の空いていそうな手近な女性店員に件のものはどこにおいてあるのか尋ね、案内してもらった。目的の場所に着くと今度は彼女が食べ方を知っているか?とたずねてくる。全く知らないと正直に答えると彼女は手順を事細かく丁寧に教えてくれた。その内容は現在の私には既に定かではないが、確か蒸し器で十分蒸し、蒸しあがったらアルコール度数の高い酒をかけて火をつけるとかそんなことを言っていたと思う。その間の会話は全て勿論英語である。私は幼い頃から望んでいたものを手に入れた喜びと、中学卒業と同時に勉強することを放棄した英語が十分通じている事実の2つに大いに満足していたのであった。お会計を済ませて彼女に一言礼を言ってから去ろうとしたその途端である。彼女の口から流暢な日本語が流れ出てきた。「プディング楽しんでね」。このときの私の驚愕がお分かりになるだろうか。半分失語症になってしまうくらいだったのだが、目は口ほどに物を言うということで、彼女は私の心中を察して自分の胸元のバッジを指し示した。そこには日の丸のバッジがあった。。。
要するにハロッズでは外国語を解す店員にはその言葉を母国語とする国の国旗のバッジを胸につけることになっていたのである。私のように興味のあるもの以外は一切見えないという人間でもなければ、そのバッジを見るや否やつぶさにその意味するところを察知するであろう。そこで私も考えた。私は現在、昨年のイタリア滞在のため英語が殆ど喋れなくなっている。ちなみに聞き取るくらいならできている。単に英語が出てくる前にイタリア語が出てきやすくなっているだけだ。ゆえに私も胸にイタリア国旗をつけ、それを見た外国人は私に物をたずねる際にはイタリア語で話しかけるようにさせるのだ。本屋で外国人の接客をする際にもそのほうがスムーズにことが運ぶ気がする。勿論英語のみの客が英語で声をかけても胸のバッジを免罪符に私は徹底的にイタリア語で答えるのだ。
しかし、私程度のイタリア語力であたかも「イタリア語で接客できます」といわんばかりのバッジを胸につけても良いものだろうか。ここは一つ、当人の語学力に応じてバッジの色彩を変えればよいのではないだろうか。滞りなく話せる場合に限って本物の色を、程度が落ちるにつれて色彩の明度を落としていくのだ。さすればいつの日にか本物と同じ色のバッジをつけるために私もイタリア語の学習を再会するかもしれない。しない気がするけど。