値切り上手

ホーチミンについてタクシーチケットを一人6ドル二人で12ドルで購入しホテルへ向かう。これでタクシー代ぼられずにすむと大喜びしていたのだが、この値段が既にぼったくりであることを我々はいまだ知らなかった。バイクだらけ埃だらけのホーチミンの街を車窓から眺めて、バイクに乗ったアオザイ美人を探すも皆無。あれ、観光用に作られたイメージだね。普通の生活を送っている人はアオザイなんか着ないのだ。ある地域に行くとアオザイだらけになる。つまり外国人が買い物をするような地域だ。もうちょっと歩くと五月蝿いの!片言の日本語で客引きしようと必死で。彼らが自分の生活を豊かにするためにあらゆる手を尽くしてお金を得ようとすることを私は否定する気は無いが、それをウザイと思う私の感覚も否定する気は無い。ウザイもんはウザイのだ。でもひょっとしたら私がウザイと感じるのは彼らではなく、彼らに私がフツーの観光客と同一視されていることに対してかもしれない。なんかヤなんだよ、私は。日本の感覚そのままで、その国の人々と同じ目線に立とうともせず見たいものしか見ない観光客が。いや、そうしたい人たちはそうすればいいんだけれど、私はそうしたくないので、そのように見られることが不愉快なのである。
そうは言いながらも一番最初に街歩きをしたのはドンコイ通り、一番観光客が集まるみやげ物やだらけの通りである。日本との物価の違いに唖然。「物価が違う」という状態がどのようなものかようやっと分かった気がする。10ドル持っていても、日本の感覚じゃ1回お茶したら即なくなる程度の金額なのだが、ベトナムならば結構な金額、一日遊ぶのに十分かもしれない。恐らくベトナム10ドル=日本50ドルくらいの感覚ではなかろうか。だってだってすっごい可愛いバッチャン焼きのコーヒーカップがたったの2ドルだったんだもん!2個購入即決。しかし店内を見渡すと同じくバッチャン焼きのコーヒーポット、シュガーポット、ミルクピッチャーにコーヒーカップ4客、下に敷く竹のマットも含めて20ドルという驚愕のコーヒーセットがあったのだ。私はな〜んにも!考えていなかったのだが、英語は全く解さない私の母が私の購入予定のカップ2客と上記のコーヒーセットを指差し「全部で20ドル」と日本語で自己主張し始めたのだ。なんたること!それじゃ私のカップはタダじゃん。流石にそこまでのディスカウントは不可能だろうと思いつつ私は傍観に徹していたのだが、店の女性店員は初め弱弱しく拒絶するも最後は苦笑しつつ母の主張を受け入れたのだ!すると私の母は調子に乗って一つ4ドルだというお盆を指差し「これもあわせて全部で22ドル」と。今度こそ無理だろう、というかそこまで言うのは流石にずうずうしいよ、もうやめてよお母さん、と私は心中思いながらもここでも傍観。またしてもその主張が通ってしまったのだ。しかしそれでも我々が店を後にするとき、店員全員がすごい勢いでまとわり付きながら我々に店のカードを渡してくる。看板に「26」と書いてあるからそこを目指して、他の店と間違わないようにと強く言われたのだ。私としては信じられないくらい、彼女たちに利益が出ないくらい値切ったのではないかと思っていたのだけれど甘かった。あの様子だったら恐らくもっと値切れたのだ。
よくベトナムでのショッピングは値切りもコミュニケーションのうち、などと聞くがその実日本人はうまく値切れなかったりするとも聞く。それはいわゆるぼったくりなどではないと、今回の母の行動を通して私は学んだ。値切れないんだよ、日本人は。遠慮しちゃってさ。私なんか絶対値切れない。定価販売に慣れすぎてるんだよ。彼らにしてやられているのではなく我々日本人が値切り下手過ぎるのだ。その点私の母は実に値切り上手。サバイバル能力高すぎである。このような場合言語能力などさして問題ではないのだ。初日からして母に圧倒されっぱなしの私であった。